よく話題になる「着物警察」について考えること。

お買い物ブログではありますが、着物について思ったことを少しづつ、つづっていければ良いなと思っています。今回は、着物警察についてのなんちゃって考察と、わたしのスタンスを3300字程度でまとめました。
長いので興味のある方だけ、読んでみてください。

 

きのう銀座へ向かう途中、遠目にも品質が良いとわかるうすいグレーの無地に黒い長羽織を羽織った、素敵な白髪のおばさまが銀座線に乗り込んできました。

ため息が出るほど素敵な着物姿の方がいらしても、知らない方のことをジロジロみるのは失礼にあたるとあまり見ないようにはしているのですが(理性で思っているだけで実際そうでないこともある)、頑張って着付けしてもらいました!ではなくご自分で着付けし慣れている感、さらに演出していない、日々の生活からあふれてくるような上品な雰囲気がとても素敵で、うっとりモードで見入ってしまいそうになった時…気づいてしまいました。

そのおばさまの、羽織りの襟が立っていたのです。折ろうとした感じにはなっていたので、たまたまうまく折れなかったのかなと推測しました。

 

そんな時、わたしはどう行動すればよいのでしょうか。
①わざわざ近寄って、声をかける
②わざわざ近寄って、直してあげる
③まさかの「あえて」かもしれないので、そっとしておく
④知らない人なので、知らんぷりする
⑤お友達が教えてくれる、あとで自分で気づくことを期待して、声はかけない
⑥その他(この時にその他の答えは自分のなかで浮かんでいない)

 

その時に選んだ答えは、⑤でした。
おばさまは、わたしと同じ銀座で電車を降りました。降りるタイミングで声をかけることも考えましたが、わたしの方が電車から降りるのが早かったので、変に待ち伏せするようなのもわざとらしい。③のあえてかもしれなくて、自信もない。 この装いはきっと、これからお友達と約束されているに違いない。このあともしかしたら着物警察に遭遇してしまうかもしれないけれども、ウィンドウにうつった姿で気づくかもしれないし、⑤という選択に希望を託してわたしは黙っていよう、そう思ったのです。

この答えが正解かどうかはそれぞれのケースや個人の考えによると思うので、ほんとうの答えはわかりません。でも、良かれと思って善意の声かけ(お直し)がすべて「着物警察」と称されて批判されるのはどうかな、と、指摘する側に立って考えた出来事でした。 

 

むかし職場の着物女子と着物談義をしていた時、着崩れている人や誤った着方をしている人に声をかけるか(直してあげるか)という話になりました。

その時に、「着物を着て“楽しんでいる”人に対し、着崩れや誤りを指摘したことで、その楽しんでいる雰囲気を崩してそのあとの時間を残念な気持ちにしてしまうのはマナー違反だと、マナーの先生が言っていた」と聞いたのを、今でも覚えています。たしかに。

着慣れていない浴衣を頑張って着て、だいすきな彼氏と花火大会へ行く日。ルンルンでお出かけしていたのに、知らない人に「浴衣のあわせが左右逆ですよ」と言われたら、どうでしょうか。しかも言うだけで直してくれるわけでもない。1日中それが気になって、もしかしたら花火も、デートも楽しめないかもしれません。

憧れの「着物で歌舞伎座」。自分ではとっても満足でハッピーだったのに、歌舞伎座で「その着物は歌舞伎座にそぐわない」って知らない人に言われてしまったら?そうはいえども、もうそれ着てきちゃったの、家に帰って着替えて出てくるっていう選択肢はもうないの、そぐわないってなにがどうダメなの!...って、楽しみにしていた歌舞伎が1ミリも楽しめない、なんてことがあるかもしれません。

(正直そんなレベルだったら、わたしなら着物を着ませんけど...)

 

でも逆に、「お太鼓のタレがめくれていますよ」とか、ほんのちょっと直せば綺麗になることならば、わたしは声をかけて欲しいと思っています。そのままで歩いて、知らない人から後ろ指さされ、しいては盗撮されたり着物界隈のSNSなどで(個人が特定できなかったとしても)笑いのネタにされたくありません。しかもタレの中に隠している折り曲げたおはしょりとか補正のタオルを見せながら今まで歩いていたなんて、考えるだけで死にたいくらい赤面!

だからそんなことがないように、できるだけ一般的に見て恥ずかしくない、変に着崩れない着付けができればよいな、と日々研究中。適度に鏡を見て着崩れても自分でパパっと直せる着付け、立ち上がった時におはしょりやタレくらい自然に気にして直すクセをつけるなど、できるだけ知らない人に注意していただくことがないように、自分に無理のない着付けやお直しテクニックを探しているところではありますが、その道のりもなかなか険しい。

ちょっとやそっとじゃ直せない迷惑防止条例にひっかかりそうな汚い着付けで街を颯爽と歩くのは論外ですけど...そんな発展途上のわたしみたいな人には、優しい声かけも本当は大切なんじゃないか、と思うのです。着物に限らず。

ただポイントは、「そのままでいると恥ずかしいこと」を、「いきなり触って直してあげる」ではなく「声をかけて伝える」こと。必要であれば一緒に直す、手伝えるスタンスであること。そして、その方がどのような状態で着物を着ているのか判断して対応すること。直せないのに伝えるだけという中途半端なことはしないこと。

これだけ気を付けるだけで、着物警察が、もしかしたら素敵な着物の大先輩になり得るの可能性が出てきそうです。

面識のない知らない方に声をかける、知らない方から声をかけていただくのって、どうしてもいまのご時世だとどちらもしづらいのは正直なところ。でも昔の日本はもっと他人に対してとても寛容で、お互い助けあい、協力しあい、生活してきました。着物が好きなもの同士、他人にも優しく、相手の気持ちも考えて親切に接することができれば良いなと、心から思ったのでした。

 

最後に、ではなぜ「着物警察」が迷惑だと批判的に言われるのか。

その人は着物警察になりたくてなったわけではなくて、発端は「善意」のはずだった。けれども相手から「迷惑」だと思われているのは、「勝手に着物に触ってくる」ことと「教えてあげている」という上から目線が、問題ではないかと考えました。

たとえば洋服の時、トイレでスカートがめくれてお尻が丸見えのまま手を洗っていたら。カーディガンを裏返しに着ていたり、ボタンをかけちがえていたら。歯に口紅がついていたら。いきなり触って直すなんてことはせず、声をかけるでしょう。それと一緒で、普通は「善意」で、こうなってますよ、相手によっては(できないなら)直してさしあげましょうか、と接する順序があるし、直接直してあげるかあげないかは、その人との関係性によって決まります。

それなのになぜか、こと着物になると、何も考えずに「直してあげよう」「教えてあげよう(何かいいたい)」という気持ちが先に出てくる方がいることは否めません。 むかしは「ちょっとおかしいところは直してあげる」という行為は、比較的普通だったように思います。でも今は「人」とのかかわり方がその時代と違っているから、それを迷惑と捉える人もいます。ましてやキモノは高価なもの、思い入れのあるもの、だから知らない人に勝手に触られたくないという気持ちも、昔と比べるとありますよね。

そして指摘する側の思い上がりというと語弊もあるかもしれませんが、「着物は高尚なもの」「わたしは着物について良く知っている」「着物は洋服よりワンランク上の格がある」などと勘違いする方もちらほら。そしてそういう方に限ってなぜか押しつけがましい。だから余計、せっかくの善意が、迷惑だと受け取られてしまうのかな。
まあ、なんともったいない善意の無駄遣い。

 

本当なら、「あら素敵ね、(色々お話した後に)でもこうした方がもっと素敵じゃない?」とか、目があってお互いにっこりした後に「あ、羽織りの襟が立ってますよ(そして他愛もない話)」みたいなの、理想なのです。

でも人見知りなわたしは、声をかけられない限りは、自分から声をかけることはよっぽどのことじゃないとありません。そして考え方のねじれや思い込みが相手によっては嫌悪感を増幅させるので、わたしは、着物を着ても目立たずおとなしくお行儀よく。本当に伝えなくちゃいけないということだけを見極めて、必要なことだけ親切に伝えられる大人になりたいなと、ぼんやりと思ったのでした。